先人 Great Man
河井継之助 時代を駆け抜けた、幕末の風雲児

河井かわい 継之助つぎのすけ

( 1827 〜 1868 )

斎藤拙堂せつどうや佐久間象山、山田方谷など当代一流の思想家や学者のもとで学んだ継之助は、郡奉行、御年寄役、家老と、藩の要職に登用され、藩政改革を進めていきます。
大政奉還、戊辰戦争の勃発と情勢が混沌とする慶応4年(1868)5月、長岡藩軍事総督の継之助は、藩の武装中立を示し、新政府軍軍監・岩村精一郎との小千谷談判に臨みます。
しかし、武装中立の嘆願書はれられず、話し合いは決裂。ついに徹底抗戦を決意しました。一度は長岡城を奪回するも、その際に左足を負傷。その後、兵力に勝る新政府軍によって長岡城は再落城し、八十里越で会津に向かう途中、会津領塩沢(現福島県只見町)で42歳の生涯を閉じました。
河井継之助記念館では、継之助の旅日記「塵壺ちりつぼ」のほか、司馬遼太郎の「峠」の直筆原稿などが展示され、全国から多くの人たちが訪れています。

小林虎三郎 長岡の近代教育の礎を築いた
先見の人

小林こばやし 虎三郎とらさぶろう

( 1828 〜 1877 )

虎三郎は、22歳で佐久間象山の門に入り、長州藩の吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称されました。象山は虎三郎の教育者としての資質を、高く評価しています。
長岡に戻った虎三郎は、戊辰戦争後、文武総督に。焦土と化した長岡藩の再興には人材育成が何よりも重要と考え、明治3年(1870)に国漢学校を開校。さらに翌年、長岡藩の窮状を見かねた三根山藩から送られた百俵の米を新校舎開校の資金に充てました。
「まちとは人が興すもの。まちづくりは、人づくりから始まる」。
人づくりの大切さを説いた虎三郎の思想は、米百俵の精神として、今も長岡に受け継がれています。

直江兼続とお船 戦国の世に「義」と「愛」を貫いた
名将とその妻

直江なおえ兼続かねつぐ と おせん

( 1560 〜 1619 )       ( 1557〜1637 )

上杉謙信のもとで、上杉景勝とともに「義」の心を学んだ兼続。天正9年(1581)、上杉家家臣で与板の名門・直江家のお船と結婚。与板城主となりました。
以来、家臣団の与板衆を率いて、主君・景勝の執政として手腕を発揮。新田開発や道の整備などを進め、城下町与板の礎を築き上げたといわれています。文武を兼ね備え、豊臣秀吉からも絶賛されていました。
平成21年(2009)のNHK大河ドラマ「天地人」では、主人公としてその生涯が描かれました。
兼続とともに景勝の信任の厚かったお船。上杉家の奥向きの仕事を任され、兼続亡き後は、女性としては異例の三千石が与えられました。当時の米沢藩の文書には、藩の運営に力を貸し、皆の尊敬を集めたことが記されています。

良 寛 人々から愛され続ける清貧の僧

良 寛りょうかん

( 1758 〜 1831 )

良寛は宝暦8年(1758)、出雲崎の名主・橘屋山本家に生まれました。18歳で出家。諸国行脚の後、39歳の時に越後に戻ります。国上(現在の燕市)にある五合庵などで暮らし、文政9年(1826)、69歳の時に和島地域の島崎にある木村家に身を寄せ、74歳で亡くなるまで過ごしました。
自らを「大愚だいぐ」と称し、あらゆる執着にとらわれず、生涯粗末な庵に住み清貧の暮らしを貫き、人々から愛された良寛。書家、歌人として数々の作品を残しました。和島地域の木村家や良寛が眠る隆泉寺がある通りは「はちすば通り」と名付けられ、良寛を慕う多くの人たちが訪れています。

山本五十六 日米開戦に反対した
連合艦隊司令長官

山本やまもと 五十六いそろく

( 1884 〜 1943 )

明治17年(1884)、玉蔵院町(現在の東坂之上町3)に旧長岡藩士・高野貞吉の六男として誕生。大正5年(1916)、戊辰戦争で断絶した山本家の名跡を継ぎました。
最後まで開戦に反対しながらも太平洋戦争で連合艦隊司令長官を務め、ハワイ真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などを指揮。昭和18年(1943)、前線基地への視察の途上、ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され戦死(享年59歳)。その翌月に元帥の称号を授与されました。
平成23年(2011)12月に全国公開された、映画「聯合れんごう艦隊司令長官山本五十六-太平洋戦争70年目の真実-」では、平和を守ろうと命を懸けて日米開戦に反対した五十六が、なぜ自らその火蓋を切って落とさねばならなかったのか、リーダーとしていかに戦い続けたかが、壮大なスケールで描かれました。

政治・経済・教育・文化など、
それぞれの分野で
歴史にその名を刻む

上杉うえすぎ 謙信けんしん

(1530 〜 1578)

越後守護代・長尾為景の子として生まれ、14歳で栃尾城に入る。「越後の虎」としてその名を知られ、春日山城を居城に武田信玄、北条氏康、織田信長らと合戦を繰り広げた。宿敵の武田信玄との5度に渡る川中島の合戦は有名。

三島みしま 億二郎おくじろう

(1825 〜 1892)

戊辰戦争後、長岡藩大参事として、復興に尽力。養蚕業や石油精製業など時代にあった産業を興す。長岡洋学校(現在の長岡高校)の設立、第六十九国立銀行(現在の北越銀行)の開設など、長岡の近代化の基礎を築いた。

野本のもと 恭八郎きょうはちろう

(1852 〜 1936)

実業家として活躍する傍ら、人はそれぞれ唯一無二の尊い存在であり(独尊)、社会で互いを尊重して生きること(互尊)の両方が大切であるという互尊独尊思想を提唱。教育の大切さを説き、「互尊文庫」(図書館)を市に寄付した。

井上いのうえ円了えんりょう

(1858 〜 1919)

「西洋の模倣だけでなく、真の近代化の推進には、ものの見方や考え方を根本からつくることが必要」と哲学の普及に尽力。日本初の哲学専修の私立学校「哲学館」(現在の東洋大学)を創立した。「妖怪博士」としても知られる。

大竹おおたけ 貫一かんいち

(1860 〜 1944)

明治27年、衆議院議員に当選し、国政に参加。数々の業績を残す一方、大河津分水の実現など郷土の河川排水事業に貢献。北海道に大農場を興すなど、明治政府の殖産興業政策の推進に尽力した。昭和15年旭日重光章を受章。

杉本すぎもと 鉞子えつこ

(1872 〜 1950)

代々長岡藩の家老職を務めた稲垣家に生まれる。結婚のため渡米しコロンビア大学で日本文化史などを講義。日本の伝統文化を紹介した「A Daughter of the Samurai(武士の娘)」を出版し、7カ国語に翻訳されベストセラーとなった。

堀口ほりぐち 大學だいがく

(1892 〜 1981)

旧制長岡中学卒業。大正8年に処女詩集「月光とピエロ」を発表。中でも340編の訳詩を集めた「月下の一群」は日本近代詩に大きな影響を与えた。昭和45年文化功労者、同54年に文化勲章を受章。